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学校案内 早稲田ゼミナールの歩み

卒業生インタビュー

挫折を経験した浪人生は、人生を盛り返すバイタリティーを持った人間

(1997年度在籍)
早稲田大学法学部卒業
青山陽一郎さん
【コーセー化粧品八王子支店 勤務】

●どんな予備校時代を過ごしましたか?

予備校の雰囲気は大学や高校のそれとは異なる特別なものでした。授業に行って先生と話をするのも、終わってから仲間と遊びに行くのも楽しかったですね。早稲田ゼミの三鷹寮から 高田馬場に通い、通常授業だけではあきたらず、その頃開講されていた単科コースも取って勉強していました。

●印象に残っている先生は?

世界史の田中先生です。人間的に魅力を感じる先生で、先生を裏切ったらいかんと勉強に励んだものです。先生は生徒をどれだけ合格させられるかを焦点に授業をしていて、実際に先 生が「ココが出る」と言ったところが早稲田で出題されました。

●どんな寮生活でしたか?

寮長がいて、大食堂で食事をし、大浴場でみんなと話をしながら風呂に入るという、なかなかできない経験をしました。私のいた三鷹寮は、当時、ヤングサンデーに連載されていた、沖さやかさんの「マザー・ルーシー」の舞台にもなったんですよ。

●後輩にメッセージをお願いします。

浪人生は1回挫折しているわけで、そこから這い上がるか流されるかです。浪人を経験して大学に入っていく人は、人生を盛り返すバイタリティーのある人。早稲田ゼミナールにはそういう人が多かったので、浪人生が少なくなるのは寂しいですね。

日芸コースのフォローに感謝。文芸学科の先輩達のあとに続きたい

(2002年度在籍)
日本大学芸術学部文芸学科卒業
飯塚朝美さん
【日本出版販売株式会社勤務】

●日芸を志した理由は?

昔から本が好きで、小説を書きたいと思うようになりました。高校2年のとき、「ミゼリコード」という作品で文芸春秋の文學界新人賞の島田雅彦奨励賞をいただいたのをきっかけに、小説家を志望し、日芸を目指すことになりました。

●早稲田ゼミナール時代はどんな学生でしたか?

早稲田ゼミは日芸コースがあるわけですから、まわりは日芸希望者ばかり。私は、とても不真面目な生徒でしたね(笑)。やる気を出したのは秋も半ば。日芸の学科試験は国語と英語なのですが、私は英語が大の苦手で、死に物狂いで勉強しましたよ。

●受験の様子はいかがでしたか?

英語を自己採点すると92点で、私としては画期的(笑)。実技試験は、三題のテーマを与えられて小説をかくというもの。そのときは「本棚」、「影絵」、「記憶」が課題でした。あらかじめ考えたストーリーにうまく課題をはめ込んだことを覚えています。

●日芸の4年間の思い出は?

とてもエキサイティングな日々でした。映画監督、小説家、ジャーナリストなどの目標を持っている学生ばかりで、私は気後れするくらいでした。毎日、本を読んで書いて、授業に出て…。早稲田ゼミの所沢校でバイトをしたのもいい思い出です。

今でも鮮やかによみがえる浪人時代 あの1年間があって、今の僕がいます

(1971年度在籍)
東京慈恵医科大学卒業
羽生信義さん
【町田市民病院 外科部長】

●早稲田ゼミを選んだのはなぜですか?

僕は高校時代に陸上競技をやっていて、あまり勉強をしなかった。高3になって進路を考えたときに、やりがいのある医学の世界をめざしました。早稲田ゼミを選んだのは、試験のある選抜クラスがあり、予備校としてもすごい力があったからです。

●早稲田ゼミの思い出は?

あの頃は名物先生がいて、数学の高見先生、英語の志賀先生、化学の好野先生…。教えるだけではなく学生の扱いもうまかった。浪人時代は勉強しましたが、精神的にはこのままダメになるんじゃないかと辛かったなあ。でも無事に合格できて、人生最高にうれしかった瞬間でしたよ。

●印象に残ったエピソードは?

僕の時代の早稲田ゼミの理事長は小山敬吾先生で、とても熱心な教育者でした。僕が慈恵の外科医になった直後にすい臓がんで入院され、僕も担当になりました。

結果的には、手術ができなくてお亡くなりになったのですが、その後に解剖をさせていただいたのです。先生自ら身体を張って、未熟な僕に「勉強せよ」と言われているようでした。それは決して偶然ではなく、先生が僕を慈恵に連れてきてくれたのではないかと、今でもそう思われてならないのです。

浪人時代の1年間は、かけがえのないオンリーワン・オンリーワンス(一期一会)の原点

私は、昭和47年に早稲田ゼミにお世話になりました。と言っても、その年に高校を卒業したわけではありません。私は7歳のときに父を亡くし、家庭の事情で長野県池田町の工業高校の建築科を卒業しました。しかし向学の思いを断ち切れずに上京し、まず予備校に入るための学費稼ぎに1年間を費やしたのです。毎朝3時半から夕方の5時まで、新宿中村屋の笹塚工場で、中華まんを作る仕事でした。中村屋は大学に入ってからもお世話になり、私の学生生活を支えてくれた職場です。東北から出稼ぎに来たおやじさんの手紙を代筆して、一緒に泣いたこともありましたね。

上京して1年後に早稲田ゼミに入ったのですが、それは高校の同級生のススメでした。彼が言うには志賀先生という、すばらしい英語の教師が早稲田ゼミにいるというのです。当時の私は、国語や世界史は独学で勉強できても、英語の成績はゼロに近かった(笑)。私はどうしても、その志賀先生に教えていただきたくて、早稲田ゼミに入ったのです。創立者の小山湖南先生も長野県出身で、とても温かなまなざしをむけていただき、ご縁を感じましたね。

志賀先生は私たちに人生を教えてくれました。心がいちばん研ぎ澄まされた時代に「君たちは負けたんだ、敗北者なんだ。でも負けたことは宝物にもなる」と励ましてくれました。私は英語がまったくわからない状況だったので、週に2?3回は徹夜で机に向かい、先生に質問をするという勉強を繰り返しました。体重も13キロ減りました。

あるとき、先生は授業中に疲れて寝ていた私の背中にそっと手を置いてくれました。ふと見上げると、そのまなざしが「がんばりなさい」と言ってくれているようで、胸に熱いものがこみ上げてきました。私は今でも、そのときの志賀先生の手を「神の手」だと思っています。私にとって、まさにオンリーワン・オンリーワンス、一期一会の瞬間でした。

その後も必死に勉強を続けましたが、夏期講習はお金が払えなくて、先生の講義を外で聞いたものです。

志賀先生の最後の授業は試験をして、高得点者は先生に名前を呼ばれます。先生は「宮澤敏文」と私を二度呼んでくださいました。成績がゼロの生徒をよくぞここまで引き上げてくれたと感謝の思いでいっぱいでしたね。結果的に私は、明治大学の政治経済に進んだのですが、今でも志賀先生の授業、早稲田ゼミのキャンパス、浪人時代の一瞬一瞬は鮮明に覚えています。

それから大学に入学しても、志賀先生の教え子は自発的に集まっては勉強を重ねてきました。その勉強会がやがて「志問会」に発展して、志賀先生亡きあとも1年に一度集まって、お互いの志を確認し合っています。予備校の先生を慕って、これだけ人の輪が広がるのも珍しいことでしょう。私自身の仕事においても、先生にアドバイスをいただき、先輩、友人たちのネットワークにどれだけ助けられたかわかりません。

私には4人の男の子がいて、現在、2人が大学に進んでいます。2人とも進学高校に進みましたが、高校球児だったので、勉強はなかなかできませんでした。しかし、それは1年あれば取り戻せます。2人とも一浪して一般受験で大学に進み、それぞれたくましく成長しました。浪人できる人は浪人したほうがいいと思います。この不安定な肩書きがない時期が大切なのです。どこの大学でもいいです、そこでどう学ぶかです。

これから大学進学を考える皆さんは、どうかかけがえのないこの時期に、必死に勉強してほしいし、多くの人と出会って自らを深めていただきたい。オンリーワン・オンリーワンス、一期一会です。

【長野県議会議員】
宮澤敏文さん

  • 1952年生まれ。明治大学政治経済学部卒業。
  • 昭和電工、衆議院議員公設秘書、会社役員等を経て、
    1995年、長野県会議員に初当選。

小論文の授業をきっかけに文章表現の奥深さに目覚め、本格的に詩作を開始

現役のときに東京芸術大学の受験に失敗。映画や写真を勉強したくて先端芸術表現科に挑戦したのですが、いま考えると失敗して当然でしたね。明確なビジョンというものがまったくなく、面接で「何がしたいのですか?」と聞かれても答えられない状態で……。人見知りということもあったのですが、自分の中に確かな想いがない情けなさを噛みしめました。結局、一浪することにして予備校のパンフレットをいくつか集めた上で、迷うことなく早ゼミ(早稲田ゼミナール)に通うことを決めました。日芸コースがあるのは早ゼミだけでしたし、当時姉たちが練馬に住んでいたので通学にも便利だと思ったのです。さっそく鹿児島から上京して姉のアパートへ。劇団員の長女、大学生の次女、そして三女の私。姉妹3人の暮らしが始まるとともに、予備校生活がスタートしました。

予備校時代は……。こんな言い方をしていいのかわかりませんが、とにかく楽しかった。日芸コースは個性的なクラスメイトばかりでしたが、みんな仲が良くて遊んでいたほうの記憶が多いような(笑)。講義が終わったあとも勉強している他の人を尻目に、男の子と二人、廊下で必死に腹筋の回数を競い合って、先生から「早く帰れ」と叱られたこともありました。あのときは「腹筋が何回できるか」という言い合いになったのでつい意地を張ってしまったんです、負けましたけど。そんな他愛もないことばかりやっていましたね。

講義で一番印象に残っているのは小論文の授業です。物語を創るというテーマで、私は最後に主人公が死んでしまう話を書いたのですが、ほかのクラスメイトも結末に「死」が絡んでいる物語が多かったようです。それで先生が言われたんですね。「人が死ぬストーリーは一番書きやすいが、陳腐だし、ありきたりだ」。その言葉がきっかけで、文章を書くことを面白く感じるようになったんです。あの授業を受けていなければ、いま言葉を操る詩人にはなっていなかったかもしれません。詩そのものは、姉の影響でもともと小学校の6 年生くらいから書いてはいたのですが、本格的に書き出したのはこの予備校時代で、内容もそれまでの少女趣味的なものから深く人を見つめるものに変わっていきました。

その後、東京造形大学の映画専攻に進み、2年生のときに現代詩手帖賞を受賞したのがきっかけで刊行した初めての詩集が、中原中也賞をいただきました。わりと早くデビューできたのですが、私、すごい負けず嫌いなんですよね。投稿のきっかけも1年のとき病気をして、入院中でもできることを探した結果ですし、詩人として認められてからは「22歳までに(尊敬する詩人の)寺山修司を超える!」と宣言したりして。個人的に寺山修司は23歳で日本を征したと思っているので、どうしても負けたくなかったんでしょうね、いま考えると恥ずかしいですが。

意外ですか? そうですね、詩を通して私を知る方にお会いすると「けっこう健全な人ですね」と言われます(笑)。大丈夫、私は元気です。 

でも大学時代には発病したり、早いデビューを妬まれたりとあまり良い思い出がなかったので、そのぶん予備校時代がよけい輝いて見えるのかも。本当に楽しかったし、そのとき出会った女の子はいまだに一番の親友です。今日いろいろとインタビューされて思い出しましたが、確かに受験生として勉強はすごくがんばりました。だけど苦しかった記憶がなく楽しい思い出ばかり残っているのが、他校にはない早ゼミの良さなのかもしれません。同じ目的を持つ仲間と過ごしたかけがえのない日々は、いまも私の心を温めてくれます。

【中原中也賞受賞詩人】
三角みず紀さん

1981年生まれ。鹿児島県立武岡台高等学校卒業後、早稲田ゼミナール日大芸術学部専科で学ぶ。東京造形大学在学中の2004年、第42回現代詩手帖賞を受賞し、同年10月第一詩集『オウバアキル』を刊行、この作品で中原中也賞を受賞する。その後、第二詩集『カナシヤル』、自伝エッセイ集『幸せのカタチ』を刊行。危うげで鮮烈なテーマを鋭く表現する、現在最も注目されている若手詩人。

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